JX金属グループ 日鉱記念館 訪問
合同会社 エムテック22 宮崎雄司
先日、ドライブの途中偶然表記記念館の前を通りかかったので、ちょっと立ち寄りました。
日鉱記念館は、茨城県日立市にあり、昭和60年(1985年)創業80周年を記念して日立鉱山跡地に建てられました。
日立鉱山は1905年(明治38年)、久原房之助が当時からあった赤沢銅山を買収し、日立鉱山として開業した。開業
数年後には四大銅山の一つに成長し、以来1981年(昭和56年)の閉山までの76年間操業を続けて来ました。
現在その事業は形を変え、JX金属グループに引き継がれています。
日鉱記念館(本館)1Fには創業者の事績、日立鉱山やJX金属グループの歴史及び鉱山町の当時のくらしを展示、
地下には坑内を再現した模擬坑道があり、2Fには日立の大煙突やJXグループの現況が展示してありました。
また、別棟の鉱山資料館には、第2次大戦中の1944年(昭和19年)に建てられた木造のコンプレッサー室をその
まま使用して、大型コンプレッサー、削岩機、電動機、鉱山標本等が展示されています。
ちなみに1910年(明治43)年には初代工作課長の小平浪平(おだいらなみへい)の進言で電気機械製作の工場が
造られ、後に日立製作所の創業者となった。
この鉱山でも創業当時銅製錬で発生する亜硫酸ガスが地元で大きな問題になった。特に、豆やタバコは煙に弱く、
周辺住民との共生を重視していた同社は損害賠償に応じていたものの事態は改善しなかった。
当時、煙突はできるだけ低くして、途中で空気と混ぜて薄めてから排出するというのがこのころの煙害対策の主流
だった。
さらに政府の命令で高さ36メートル、内径18メートルのずんぐりしたダルマ煙突を建てたりしたが、一向に
効果をあげることができなかった。
そこで久原は「思い切って高い煙突を造り、上空で拡散させたら」と発想を転換。大雄院(だいおういん)という
寺の跡に作った製錬施設の裏手の山の斜面、海抜325メートルの地点に鉄筋コンクリート製で高さは500尺、
155.7メートルの大煙突の建設に着手し、着工後わずか9カ月足らずで完成、翌1915(大正4)年の3月から
稼働した。同時に製錬所の周囲10キロメートルに設置した観測所で気象をチェック、風向きなどで煙害が悪化
しそうになると操業を大幅に抑えるなど煙害防止に努め効果を上げた。
当時、米国モンタナ州の製錬所の煉瓦(れんが)煙突152メートルをしのぎ世界一であった。戦後の1972
(昭和47)年になると、密閉型の自溶炉を採用、亜硫酸ガスは全量硫酸として取り出し、無公害化を達成した。
しかし1993年(平成5年)2月19日、約 3分の1を残して倒壊してしまった。
倒壊前の大煙突
倒壊後に改修が行われ、高さは54メートルとなってしまったが現在も煙突としての利用が続けられている。
日立の名物となった大煙突、煙害克服に努力した会社と当時の地元住民の葛藤の様子は直木賞作家の新田次郎
の小説『ある町の高い煙突』(文藝春秋)で知られるようになった。また近く映画化も決まっている
ようである。
参考資料 :日鉱記念館パンフレット
PDF版レポートはこちら⇒tsubuyaki16.pdf